最終話
一ヶ月が経ちました。
11月半ばの風は肌寒く、人々はブルゾンを羽織ったり、ムートンブーツを履いたりしています。
かわっちと西川口、はとっちの3人はビルの影からこっそりと川口駅東口公共広場、別名キュポ・ラ広場のベンチに座る幸子を見ていました。
幸子は医者の東川口が手を回したおかげで無事に手術を受け、視力を取り戻していました。
「さ、行ってこい」西川口がかわっちを促します。
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。
かわっちは黙って幸子を見ています。
「どうしたんだ? かわっち。約束の時間はとっくに過ぎてるんだぞ。あんまり待たせたら可哀想だろ」
「うん」
「どうしたんだよ」
「いや、目が治って本当によかったっちなと思って」
「お前が治したんだよ」
「そうっちね」
「ふるっふー」
そのとき、幸子に一人の男が近づいて行きました。
レギュラーフィットのジーンズにBEAMSで買ってみたいなパーカーをあわせ、ニューバランスのグレーのスニーカーを履いたその男は、かわっちが神社で出会った戸塚でした。
「…さっちゃん…」戸塚が幸子に声をかけました。
「…と、戸塚くん」幸子が驚いて見ます。
「さっちゃん。本当に目、治ったんだね。よかった」
「なんで?」
「ある人からここに来れば君に会えるって聞いて」
「え? ある人って…か、かわっち?」
「名前は知らない」
「どんな人?」
「人っていうか。緑色のモンスター」
二人のやり取りを見ながら西川口はかわっちに問い詰めていました。
「おい、かわっち。一体どういうことだよ」
「これでいいっちよ。彼は戸塚くん。さっちゃんの元カレっち。2年間、さっちゃんのためを思ってお百度を踏んでいたらしいっち」
「…確かにいいやつなのかもしれないけど、お前の気持ちは…」
「人間の女の子とおれっちみたいなモンスターが結ばれるわけないっちから」
「本当にそれでいいのか?」
「さ、行くっち。お笑いオーディションに間に合わなくなるっちよ」
「本当にいいんだな」
「バス乗り場はあっちっちね」
「ふるっふー」
かわっちはバス乗り場へ歩き出しました。西川口と、はとっちも黙ってついていきました。
幸子は混乱していました。
「緑色のモンスター? 誰なの? そのモンスターがかわっちのこと知ってるの?」
「いや。俺にもさっぱりわからないんだ。ちょっとしたことで知り合って、今日、ここに来るように言われて」
かわっちたちは赤羽行きのバス、その後部座席に乗り込みました。
「出発します。閉まるドアにご注意ください」
運転手の声のあとにドアがプシュと閉まり、バスは動き出しました。
川口駅がだんだん遠ざかっていきます。
「その緑色のモンスターはどこにいるの?」
「いや、それも知らないんだ」
「どこで会ったの?」
「あ…」
「どうしたの?」
「いた」
戸塚は駅から遠ざかっていくバスの後部座席にかわっちの後ろ姿を見つけました。
「あれがそうだ」
瞬間。幸子は立ち上がり、走ってバスを追いかけていました。
そのあとを戸塚も追いかけます。
「おれっち、やっぱり付き合うなら堀北真希ちゃんクラスの美人がいいっちな。あと、ボディはスレンダーもいいっちけど藤原紀香さんみたいなグラマラスが理想っちよ」
「強がるなよ」
「ふるっふー」
「うう…」
「泣くなよ。それはそれで鬱陶しい」
「ふるっふー」
バスの後部座席ではかわっちの失恋残念会が始まっていました。
「ま、でも、どうあれ一人の女の子を幸せにしたんだ。よかったんじゃないか」
「そうっちね」
「ふるっふー」
バスを追いかける幸子は転んでしまいました。
それでもすぐに立ち上がりバスを追いかけます。
転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がり、擦り傷や打ち身を作りながらも幸子は諦めずにバスを追いかけます。
バスを追いかけてくる幸子に最初に気がついたのははとっちでした。
「ふるっふー」
「はとっちもそう思うっちか?」
「ふるっふー」
「そうっちよね」
「ふるっふー」
「うんうん。その通りっち」
「そうじゃなくて、さっちゃんが追ってきてるぞ」はとっちがしゃべりました。
「え?」かわっちは振り向きました。
さっちゃんはボロボロになりながら、血を流しながらバスを追いかけています。
そのあとを汗だくの戸塚もついてきています。
「運転手さん止めてくださいっち」かわっちが叫びました。
「停留所までもうしばらくお待ちください」運転手は業務的に答えました。
「待てないっち」瞬間。かわっちは走るバスの窓から飛び降りました。
そして、着地に失敗して歩道をゴロゴロと転がり、血まみれのボロボロになりました。
それから10秒後、バスは10メートル先の停留所に停ました。
西川口とはとっちはプシュと開いたドアから普通に降りてきました。
やっとかわっちに追いついた幸子ですが息が上がってしゃべれません。
両手をひざにつき、肩で荒い息を整えています。
そして、血まみれのかわっちを見ました。
「ハアハア…あなた…ハアハア…かわっちのこと知ってるの?」
かわっちは幸子を見ました。
初めて出会った日、一緒に新荒川大橋を渡った日々、グリーンセンターのデート。楽しい思い出が頭をよぎります。
「お…お…」
(そして、いつの日か結婚したり、子供を作ったり、そんな普通の家族になりたい)
かわっちはグリーンセンターで幸子が言った言葉を思い出していました。
その目は何かの決意に満ちていました。
「おいは…かわっちの友達の…か、か、カッパ川…コジロウっち」
「何故九州弁???」つぶやいた戸塚に西川口が「しっ」と黙るように合図しました。
「そう? コジロウくん。今日かわっちと会う約束してたんだけど。すっぽかされたの。あなた何か知らない?」
「あ、そうそう。おい、伝言頼まれてたばってんがうっかりして伝えるの忘れとったばい。あいたー」
「伝言って何?」
「かわっちは急な仕事で海外で暮らさんばいかんくなったもんね。それで、あなたに会えんごつなったったい。サヨナラって言いよったばい」
「…そう…。それだけ?」
「それから、心からあなたの幸せを祈っとるって言いよったばい」
「あたし。かわっちのことが好きだったの」
「…そ、そげんね。あの男も隅におけんね。まあ、あいつはプレイボーイだけん、あんな男は忘れてその一緒にいる彼と幸せになるったい。よか男たい」
「かわっち。プレイボーイだったの? そうは思えなかったけど」
「じゃ、おいはこれで行くけんが。伝言ば忘れてほんなこつ悪かったね」
かわっちはそう言って歩き出しました。
その後ろ姿に幸子が言いました。
「かわっち。あなたが本当はかわっちなんでしょ」
かわっちは立ち止まりました。
そして振り返って言いました。


「まさか。かわっちはおいなんかと違ってブラッド・ピットみたいな顔でEXILEみたいな髪型の好青年ばい。じゃあ、本当にこれで。名も知らん女のひと」
「幸子。幸子よ。あだ名はさっちゃん」
「…さようなら。さっちゃん」かわっちは最後につぶやきました。そして、振り返らずに歩いて行きました。
その隣を西川口とはとっちが寄り添いながら歩いていきます。
かわっちは幸子と初めて出会った新荒川大橋を歩いて渡っています。
車道では今日も、北から南へ、南から北へと車が激しく行き交っています。
歩道では埼玉から東京へ行く人、東京から埼玉へ来る人、それぞれがまばらに歩いています。
いつもの風景です。
誰かがクラクションを鳴らしたとき、新荒川大橋の真ん中ででかわっちは上を見ました。
見上げた空は高く、どこまでも澄みきって、小さなとんびの影がゆっくりと円を描いていたのでした。
第十話
そして、2時間が過ぎました。
200発、休みなく裏拳を繰り出した西川口も、それを受け続けたかわっちも満身創痍です。
今にも倒れそうです。
それでも二人は殴る側と殴られる側を続けています。
「ハアハア…な、なんでや…ねんな…」ガッ
「ゲフッ。も、もういっちょう!」
「ハアハア…なんでや…ね…ん…」そう言って、ついに西川口が膝をつきました。
「ハアハア…」かわっちも西川口につられるように膝をつきました。
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。
「ハアハア…大丈夫だ。はとっち」
「ふるっふー」
「お願いだ。やらせてくれ。俺だって、俺だって、本当はちゃんと出来るんだ」西川口は涙を流しています。
よろよろとかわっちが立ち上がりました。
「泣いている暇があるなら…早く…終わらせるっち…それとも、西川口さんは口ではカッコいいこと言っても根性なしのボンボン気質だから本当はもうこの辺で適当に終わらせたいと思ってるっちね」
「何?」
「悔しいっちか? 悔しいならここにいるツッコミ待ちのモンスターにちゃんとツッコんでみたらどうっちか」
かわっちは舌を鼻につけ、目は上を向き、片足立ちで、顔の横で両手の親指と小指だけ立てて精一杯ひょうきんなポーズをしています。


「ちくしょー。ちくしょー」西川口は震える自分の足を殴りつけ気力で立ち上がりました。
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。
「大丈夫だ。はとっち。ちゃんと見ていてくれ」
「ふるっふー」
「な…なんでやねんなッ」
「もういっちょう」
「なんでやねんなッ」
「もういっちょう」
「ふるっふー」
かわっちも西川口もはとっちも涙を流していました。
「な…ん…でや…ねん…な…」
「ハアハア…もう…い…っちょう…」
「298回」数をカウントしているのははとっちです。(しゃべれるんかいッ??? 西川口、ツッコめよ!)
「なん…で…や…ねん…な」
「ハアハア…ハアハア…もう…い…っちょう…」
「299回。ラスト一回!」はとっちが言いました。
「ハアハア…な…な…な…なん…」西川口は膝をつきました。
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。
「だい…だいじょう…ぶだ…はとっち」西川口が立ち上がりました。
西川口はかわっちを見ました。
かわっちは立ったまますでに気を失っていました。
禿げ上がり、顔を腫らし、血を流し、白目をむいた状態で。
人間たちに恐れられ、嫌われ、傷つけられてきたのに、誰も恨まず、それどころか人を幸せにするためにこんなにボロボロになっています。
西川口は優しくかわっちを見て言いました。
「なんでやねんな…」
そして、かわっちを優しく叩き、そのまま倒れ込みました。
そのとき、ビルの影から差し込んだ朝日が3人を優しく照らしました。
やわらかな朝日に白く染まるかわっちを見ながら西川口はつぶやきました。
「はとっち。俺、全部なくしちゃったけど、いや、本当は最初から何も持ってなかったんだな。でも今は、お前と…かわっちがいる。俺、自分の力でやってみるよ」
「ふるっふー」朝の静寂の中、はとっちの声が優しく響きました。