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「ちょ、ちょっとかわっち…」幸子は柵にしがみつきました。
 しかし、目の見えない幸子にはかわっちの安否はわかりません。
「かわっちぃぃぃ」幸子は叫びました。
 しかし、かわっちの声は聞こえません。
 幸子はどうしていいかわからず柵に額をつけて泣きました。
「かわっち。かわっち…」幸子はそのまま泣き続けました。
 3分ほどたって、ぺちゃぺちゃという濡れた足音が近づいてきて幸子の前で止まりました。
 荒い息遣いもします。

「これは大切なものっち。こんなふうに捨てたらダメっちよ」
 荒川から幸子の杖を拾ってきたかわっちでした。
 かわっちはうずくまってる幸子を立たせて杖を手に持たせました。
「…濡れてる」
「そうっちね」
「た、大切な杖なのよ」
「わかってるっち」
「濡れてるじゃないの」
「え?」
「なんで濡れてるのよ」
「え? それはさっちゃんが…」
「あたしのせいなの?」
「いや、ごめんっち」
「…」幸子は涙を流しています。
「それだけ?」
「いや、あの、この度かわっちは幸子さんの大切な杖を濡らすという失態をおかしてしまったことをここに深く謝罪させていただきます。今後このようなことのないようより一層注意して参りたいと…」
「そんな言葉じゃないの」
「…じゃあ、どうすればいいっちか?」
「明日は休みなの。あたしをデートに連れていきなさい」
「え?」
「明日も朝9時、いつもの場所で待ってなさい」
 幸子はそう言って去って行きました。
 橋の真ん中に取り残されたかわっちは冷たい秋風にくしゃみをするのでした。

「まさかあの女が自分からデートに誘ってくるとはな」
 西川口が橋のうえで佇むかわっちに近づいて来ました。
「デート?」かわっちが言いました。
「ああ、デートだ。そう言われたろ」
 西川口に言われ、かわっちは表情を変えることなくタバコを取り出しました。
 そして、100円ライターで火を付けようとするのですが指先が震えて全く火がつきません。
 火をつけるのに失敗する音がカチッ、カチッっと何度も響き渡ります。
「おおお、おれっちがデートにささささ誘われた?」声も震えています。
「ああ」
 かわっちは全身がガタガタと震えています。
「落ち着けかわっち」
「おおお、落ち着いてるっち…」落ち着いてません。
「お前、デートしたことないのか?」
「あああああるっちよ」ありません。
 かわっちはやっと思いで火をつけたタバコを、気ぜわしくふかすものの指先の震えはいっこうに収まりませんでした。
「しょうがねえな。俺が全面的に協力してやる。とりあえず来い」
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。

 かわっちたちが西川口の部屋に入ると東幹久みたいな感じの、知らない男がいました。
「こんにちは。君は…かわっちか」男は気さくに話しかけてきました。
「そうっち。かわっちっち。あなたは?」
「そいつは東川口。俺のともだちだ」西川口が紹介しました。
「どうもっち。西川口さんと東川口さんっちか。面白いっちね」
「そうだな。東川口はこう見えて医者なんだ。それで俺はこのとおり資産家。孤高のトレーダー」
「へえ」
「じゃ、ま、そういうことで」東川口と紹介された男は席を立ちました。
「もう帰るっち?」
「うん。じゃ」
「じゃ、よろしく」西川口が言いながら玄関に送りました。
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。

「あの人何しに来てたっち?」
「ちょっとな。相談があって」
 かわっちはリビングにあるソファに腰掛けてあらためて部屋を見回しました。
 部屋の調度品はどれもかわっちにはよくわかりませんが高そうなものばかりです。
「いつ見てもすごいっちね」
「ああ、親から多額の遺産をもらったからな」
「え?」
「ん?」
「なんか裸一貫でFXでここまでのし上がったみたいなイメージで語ってなかったっち?」
「ああ、職業と言われたらFXのトレーダーだけど、あれ実はあんまり勝てないからな」
「え?」
「というかまあ結構負けてばっかり? ま、いつか取り返すからいいんだよ。取引所に貯金をしてるってわけだ。ちょっと引き出しにくい貯金だけど」
「うわ。なんか…知るほどにカッコ悪いっちね」
「勝負の世界に生きてる男に向かってカッコ悪いとはなんだ」
「だってなんか…」
「そんな態度のやつにはデートの協力してやらねえぞ」
「カッコイイっち。憧れるっち」
「ふるっふー」

「でだ。まずはデートの会話。これが重要だ。一番大切なのはなんだと思う?」
「全くわからないっち」
「ほめること! 女はとにかくほめてほめてほめまくって気持ちよくさせるんだ」
「き、気持ちよくっちか?」
「素敵な服だね。着る人が着ると違うなとか外見、内面、とにかくほめるところを探してほめまくれ」
「わ、わかったっち」
「あとはどこに行くかだが」
「それなら考えがあるっち」
「どこだ?」
「ホテ…」
 西川口はハリセンでかわっちをはたきました。
「グリーンセンターがいいと思うっちよ」
 グリーンセンターとは川口市が運営する四季折々の花やみどり、紅葉などが楽しめる広大な公園です。
「なるほど。この季節、紅葉の中を落ち着いて散歩したりするのは悪くないかも知れないな。目が見えなくてもそれなりに楽しめそうだな。お前にしてはいい案だ」
「じゃあ、これでバッチリっちね」
「いやひとつでっかい問題があるぞ」
「何っち?」
「足だ」
「足っち?」
「グリーンセンターまでどうやっていくんだ」
「足で行くっちよ」
「お前はアホか」
「え?」
「歩いて何時間かかると思ってるんだ」
「2時間くらいっちかね?」
「目的地まで2時間も歩いていくデートがあるか。途中で心折れるわ! しかも彼女は目が見えないんだぞ」
「じゃあ、何で行くっち?」
「車だよ。車。しょうがないから俺のランボルギーニを特別に貸してやるから」
「やったっち」
「ところでお前免許は」そう言って西川口はかわっちを見ました。
 緑色のモンスターは、はとっちとアホ面を下げて阿波踊りを踊っています。
「持ってるわけないよな」はしゃぐかわっちを見ながら西川口は頭を抱えるのでした。

 朝になりました。
 荒川の橋の上ではかわっちが幸子を待っています。
 しかし、今日のかわっちは様子がとてつもなく変です。
 どう変なのか? 
 西川口と一緒なのですが、かわっちは西川口におんぶひもでおんぶされてまるで大きな赤ん坊です。
「まったくなんでおれがこんなこと…」
「恩に着るっち」
「はあ…」
「しゃべったらダメっちからね」
 車の運転が出来ないかわっちはデート中、西川口と合体し、運転させることで目の見えない幸子をごまかそうという最低な作戦でした。 

08おんぶ
 

「ここっちよ」目が見えない幸子を気遣いかわっちから声をかけました。
「うん」
「今まで何してたっち?」かわっちが訪ねました。
「マッサージ」
「へえ。気持ちよかったっち?」
「あたしがするの」
「そ、それっていやらし…」

 ビシっ

 幸子はかわっちを杖で殴りました。

06幸子


「すいませんっち」
「あたし、マッサージ師になるの」
「そうっちか。立派な目標っち」
「本当?」
「本当っち。ところでさっちゃん…」
「何?」
「おれっちと結婚してほしいっち…」
「無理。何言ってるの? 荒川に突き落とすわよ」
「あ、いや。違うっち。あの、おれっちの恋人になって…」
「無理。何言ってるの? ハゲタカにさらわせるわよ」
「あ、いや。そうじゃなくて。あの…」
「何?」
「明日も会えるっちかね?」
 そんな話をしているとちょうど橋の終わりまで着いていました。

 橋を渡るのにかかる時間は約15分です。
 そんなにたくさんの話はできません。

「ここまででいいわ」
「そうっちか」
 そして、幸子は去り際に吐き捨てるように言いました。
「明日はここに9時ね」
 かわっちはしばらくその言葉を頭の中で反芻していました。
 そして、その意味に気づいて言いました。
「…ほ、本当っちか?」
 幸子はかわっちを振り向きもせずに歩いて去って行きました。
「ドア…アイーン…インザフェイス…効果、あったっち?」

 秋風がかわっちを優しく包んでいました。

 そのときインカムから西川口の声が聞こえてきました。
「ちょっとこっちに来い。それから…アイーンはいらない」
 かわっちは指示通りにエルザタワーの西川口宅へ向かいました。

 ソファに座ったかわっちに西川口はいいました。
「あの女はやめとけ」
「さっちゃんっちか?」
「さっちゃん。そうだな。名前、幸子だったな。新井宿幸子。さっちゃんはやめといたほうがいい」
「どういうことっち? あの人のこと知ってるっちか?」
「ああ、中学校の同級生だ」
「え?」
「あの女は昔から美人でな…小学校のころからモテまくっていたらしい。俺の知ってるかぎりでも学校一のモテ男とか、どこぞの金持ちだとかと付き合ったりしてたな。ただ、あんまりいい付き合い方じゃなく、男を足につかったり貢がせたりしてたみたいだ」
「まあ、あれだけ美人ならそういうこともあるかもしれないっちね。でも、目、見えてたっち?」
「これは、おれも人から聞いたんだけど、2年前、あいつが24歳のころ、なんかモデルとしてテレビなんかにもちょこちょこ出てたらしいんだが、両親と一緒に交通事故にあってな。両親は亡くなってあいつは視力を失ったらしい」
「かわいそうな話っちね」
「当時、あいつにはちゃんとした彼氏がいて、そいつは目が見えなくなってもあいつに必死に尽くしたらしいんだが、事故のあとひどくなったあいつのわがままに耐え切れなくなって別れたんだって。その後もいろんな男友達があいつのもとにいったけどみんなボロボロになって、あるいはそうなる前にあいつから去っていったらしい。だからお前もたぶん…」
西川口はブランデーグラスを弄びながら語りました。
「ボロボロのメタメタのくちゃくちゃになって捨てられるぞ」
 かわっちは膝のうえに手を乗せたまま言いました。
「でも、それは昔の話っち」
「…人は変わらないよ」
「そんなことないっちよ」
 そのあと少し話してかわっちは西川口の部屋を出ました。
 西川口から幸子の話を聞いたあとでもやっぱりかわっちは明日の幸子との約束が楽しみで自然と足取りが軽くなるのでした。

 翌日朝9時、新荒川大橋の入口で幸子を待つかわっちがいました。
 目が見せないのだから当たり前ですが、幸子はどこかたどたどしい足取りで歩いてきます。
「さっちゃん」
 かわっちが声をかけました。
「遅いじゃないの」
 幸子が力強く答えました。
「お、遅いっちか? むしろおれっちここで待ってたような気が…」
「さ、行くわよ」
「む、無視っちか…」
 幸子がかわっちに手を出しました。
 かわっちはその手を優しく引きました。
 二人は特に話すこともなく無言で歩きました。
 気が付くと橋の半分ほどまで来ています。
 かわっちは何か話さなければと焦り、言いました。
「綺麗な景色っちね」
「あたしには見えないんだけど」
「あ、ああ…そうだったっちね」
「どう綺麗なの?」
「え?」
「説明しなさい」
「えーと。なんかバーってなってて、キラキラしてて、緑が弁当のバランみたいな鮮やかでいい感じで」
「何言ってるの? 全く伝わらないわよ」
「あ、バランっていうのはスーパーのお寿司なんかにはいってる緑色のギザギザの仕切りで、ガリなんかの味がご飯につかないようにしたりするあれっち」
「…」
「あの、ほら5センチくらいの。あれが入ってるとちょっとだけ弁当が色鮮やかにになるっちよ。バランは…もともとはハランとか人造バランって言われたりしてたらしいっちけど結局、『人造』は短縮されてバランっていう名前で呼ばれてるみたいっち」
「なんで延々とバランの説明してるのよ。景色の素晴らしさを説明してって言ったのよ」
「だ、だからそれはなんかバーっていい感じで」
「だからそれじゃあ全く伝わらないのよ」
 そんな話をしてるともう東京についていました。
「じゃあ、また4時間後」
「わかったっち」

 4時間がたち、また幸子が東京側から歩いてきました。
「さっちゃん。お疲れ様っち」
「べつに」
「…じゃあ、行くっち」
 また、話題も見つからないまま一緒に歩いて行きました。
 橋の中程まで歩いたときかわっちが話しかけました。
「か、川口の人っち?」
 かわっちはあまりに話題がなくて、突然よくわからない質問をしてしまいました。
「え?」
「あ、いや、あのお住まいは川口っち?」
「当たり前でしょ。何言ってるの。ドーベルマンに食いちぎらせるわよ」
「ハアハア」
「ちょっと何で息遣い荒くなってるの!」
「べ、べつに想像して楽しんでるわけでは…」
「かわっちは?」
「え?」
「川口長いの?」
「あ、ああ生まれてからずっと川口っち」
「ふーん」
「…あ、あの、川口は色々世界に誇れるところがあるっちよ。知ってるっち?」
「何?」
「パンを買ったら袋を止めるプラスチックのやつ知ってるっち?」
「…」
「あれは、正式名称バッグ・クロージャーって言うっちけど、すぐそこにあるクイック・ロック・ジャパンっていう会社で作ってるっち」
「…」
「人類がパンの袋を閉じて保存できるのは川口のおかげってわけっち」
「…」
「そ、それに、バッグ・クロージャーはパンの袋を止めるだけじゃなくって、工夫次第でいろいろな使い方ができるっち。たとえばゴボウの皮むきにも使えるし、オレンジの皮を剥くのに使ってる人もいるっち。あとは、タコ足配線でつないでるコンセントやケーブルが何の機器のものかわからなくならないように『テレビ』とか『パソコン』とかマジックで書いてはめとけばいざというときにわかりやすくって便利っち」
「何の話をしてるのよ」
「いや、あのおれっちたちが暮らす川口をもっと好きになってもらおうと」
「他はないの?」
「え?」
「世界に誇れるんでしょ」
「えーと…」
「…」
 そんな話をしていると、また橋の終わりまで着き、幸子が言いました。
「じゃあ、明日も9時。明日は遅れないように」
「え? べつにおれっちは遅れてなんか…」
「遅れないように!」
「…はい」
 幸子はしっかりとした足取りで帰って行きました。

 それから、毎日かわっちは朝9時と昼の1時に新荒川大橋で待ち合わせて幸子を送り迎えするようになりました。

 二人の会話は本当にくだらない内容でしたが、どMのかわっちにとっては幸子のツッコミや突き放しは実はけっこう心地がよく、かわっちは一日のうちのこの僅かな時間を大切に思うのでした。
 何より美人の幸子と手をつないで歩くのは純粋に楽しいものでした。
 幸子も口ではかわっちにキツイことを言うものの、それでもしっかり毎日約束の時間にあらわれ、かわっちに手を引かれて橋を渡るのでした。

 しかし、ある日二人は些細なことで喧嘩をしてしまいます。

 かわっちと幸子が出会って4日目。二人は東京から埼玉側へと橋を渡っていました。
 すると向こうから幸子ほどではありませんが、グラマラスな、なかなかの美人が歩いて来ました。
 かわっちはつい、(主に胸に)見とれて声を出してしまいました。
「ほえー」
「何? 今のほえーって?」
「え?」
「今、ほえーって言ったでしょ」
「い、言ったっち?」
「言ったわよ。なんでほえーって言ったの?」
「いや、別に美人なんかとすれ違ってないし、胸に見とれてもいなかったっちよ」
 かわっちはアホなのです。
「…もう今日はここまででいいわ。じゃ」
 幸子はそう言ってかわっちの手を振りほどいて一人歩き出しました。
「ちょっと待つっち」かわっちは追いかけ、幸子の手を掴みました。
「どうしたっち?」
「べつに…」
「なんか変っちよ」
「ねえ、かわっち?」
「何っち?」
「あなたあたしのことどう思うの?」
「え?」
「美人?」
「え? 美人っちけど…」
「どういうふうに美人?」
「うわー。こういうこと聞くっちか?(ええと…おれっちが今まで見てきたなかで一番の美人っち)」
「え? もう一度言ってみなさい」
「うわー。なんか面倒くさいっちねー。(はじめて会った時天使かと思ったっちよ)」
「かわっち…」
「さっちゃん」
「心の声としゃべる内容が逆になってるじゃないの!」
「え?」かわっちはアホなのです。
「やっぱりあなたも結局はあたしから去っていくのよ。いいのよそれで」
「そ、そんなことないっちよ。おれっちはさっちゃんのためなら何だって出来るっちよ」
 幸子はそれを聞いて橋の柵まで歩き、杖を川に投げ捨てました。
「何するっち?」
「とってきて」
「え?」
「あたしのためならなんだってするんでしょ」
 橋から川までは20メートルほどの高さがあり、普通の人間が飛び込んだならとても無事にすみそうにありません。

 しかし、かわっちは一切の躊躇なしに柵の上に上りました。

「わかったっち」

 そして川に飛び込みました。

 幸子が「え?」とつぶやき、あっけにとられてるとザバーンと、かわっちが川に着水した激しい音が聞こえました。

07幸子
 

 車道ではバスやトラックがスピードを出して行き交っています。
 地面と水平に飛ぶかわっちは東京側から走ってきた大型ダンプに跳ねとばされました。

ドンッ

 かわっちは今度は回転しながら跳ね返り、橋の境の鉄柵に勢いよくぶつかりました。

ダンッ


 さらに鉄柵にもう一度跳ね返ったかわっちは、歩いていた別の女性にひっかかりながら地面に斜めに落下していきます。
 
 女性はキャッと小さく悲鳴をあげ、かわっちは地面を5メートルほど転がりやっと止まりました。

04転がるかわっち


 同時にカランカランと乾いた音が響きました。
 女性が大切に握っていた白い杖がコンクリートで舗装された歩道を滑っていく音でした。
 杖は回転しながら勢いを弱め、かわっちにぶつかって止まりました。

「だ、大丈夫?」

 女性が弱々しく開いた両手で空間をさぐりながらよろよろと歩いてきます。
 その姿を見たかわっちに、稲妻に撃たれたような衝撃が走りました。

「き、綺麗なひとっち…」

 すらりと伸びた手足に、肩までの黒い髪。
 陶器のような白い肌。整った顔。
 着ているモノはユニクロあたりで売っているようなゆったりしたとロングスカートとニット、足元はメーカーもよくわからないスリッポンというラフな感じでしたが、それでも女性は天使のような美しさでした。

「おれっちなら大丈夫っち。あなたこそ大丈夫っちか?」
 かわっちは擦り傷だらけの体を起こして立ち上がり言いました。

「つえ…」
「ま、たしかに強いか弱いかでいえば強い男ってことになってしまうっちね」
「つえ、拾いなさい」
「え?」
「あたしの杖。あなたの近くにあるでしょう」
「あ、杖…。杖っちね。どうぞ」
 かわっちは杖を拾って渡しました。
 女性は杖を受け取ったもののお礼も言わず黙っていました。
 かわっちも何と声をかけていいかわからず黙っていると女性が言いました。
「あたしは向こうに渡りたいの」
「あ…どうぞ…」
「どうぞじゃないでしょ。見てわかるでしょ。あたしは目が不自由なの」
 確かに、かわっちは言われてはじめて気がつきましたが、女性は目が不自由なようでした。
「…ああ、ゴメンっち。一緒に行くっち?」
 かわっちは少しだけ躊躇しましたが、女性にうながされるようにその手をひいて歩き出しました。

05幸子登場

 
「ミトン?」
「え?」
「手袋してるの?」女性が訪ねました。
「あ、ああ…そうっち。冷えてきたっちから…」かわっちは自分の手を見て答えました。
 そしてしばらく二人で無言で東京方面へと歩きました。
「名前くらい名乗ったら?」女性が言いました。
「ああ…そうっちね。かわっちっち」
「かわっちっち?」
「かわっちっち」
「そう…。かわっちっち」
「最後のちはいらないっち。かわっち」
「かわっち?」
「かわっち。あなたはなんて名前っち。あ、このなまえっちっていうのは決していやらしい意味でいったわけではなくて。純粋に名前を聞こうと…」
「何を言ってるの? しっぺするわよ」
「す、すいませんっち」 
「幸子。新井宿幸子よ」
「幸子さんっちか。じゃあ、さっちゃんっちね」
「さっちゃん?」
「さっちゃん」
「さっちゃんね…」
「気に入らないっち?」
「まあ、いいわ。さっちゃん。そう呼ぶこと許してあげる」
「…はあ…な、なんかさっちゃん見た目のイメージと…」
「あなたは何者?」
「な、何者って?」
「ほら、職業とか住所とかあるでしょ」
「あ、ああ…えーっと」かわっちは自分の姿を見て黙りました。
「何? どうしたの?」
「あ、いや。あの…職業っちね」かわっちは自分がモンスターだと明かすことを躊躇しました。
 過去、モンスターであることを理由にフラれまくってきたのです。
 そして、悩んだ挙句、嘘をつくことにしました。
「えふえっくすをやってるっち。そして、あのエルザタワーっていう超高層マンションに住んでるっちよ。FXは破産することもあるシビアな世界っち」
「へえー」
 どうやら幸子に疑う様子はないようです。
 その時、かわっちは気づきました。
 目の見えない幸子ならモンスターであることを隠して人間として接してもらえると。
「そして、おれっち…ブラッド・ピットみたいなイケメンフェイスっち」

 ん?

「え?」と幸子。
「ヘアスタイルもEXILEみたいな感じでイケてるっち」
 かわっちは調子にのって、モテようとイケメン要素をどんどん盛りました。
 本当に最低なヤツです。
「へえー」幸子はクールに返します。
「そんなモテモテのかわっちをどうぞよろしく」
「着いたわ」
 いつの間にか二人は川を渡り東京に降り立ってました。
「私は用事があるから。そうね。4時間後。ここに迎えにきて」
「え?」
「じゃあ」
「あの…」
「じゃあ、4時間後に」
「わかったっち」

 かわっちは去っていく幸子の可憐な後ろ姿に見とれつつも今起こったことがなんだか現実でないような気がしてしばらく佇んでいました。

 橋の上は相変わらずダイハツのタントやムーヴ、ミラパルコなんかが北から南へ、あるいは南から北へと走っています。
 しばらくそれらを眺めてからかわっちは西川口の存在を思い出しインカムで呼び出しました。

「もしもし西川口さん?」
「…え?」
「西川口さん?」
「ん?」
「寝てたっち?」
「…バカ。寝てないよ」
「何してたっち?」
「FXだよ。FX。FXは破産することもあるシビアな世界なんだ」
「ああ。FXっちか。ところでやったっちよ。なんかよくわからないけど女のひとと手をつないだっち」
「ほ、本当か?」
「本当っち。次は4時間後にまた会うことになってるっち。このあとどうすればいいっち?」
「ドアインザフェイス、やったか?」
「あ、やってないっち」
「次にあったらちゃんとやるんだ」
「わかったっち」
「ところで美人か?」
「すごい美人っち。野島伸司さん脚本の『この世の果て』でななちゃん役を演じた桜井幸子さんみたいな薄幸系の美人っち」
「本当か?」
「本当っち」
「へえ」
「疑ってるっちね」
「いや、別に」
「4時間後またこの橋で合うからそこから見てるといいっち」
「はいはい」

 4時間が経ちました。
 約束どおりかわっちが幸子と別れた場所で待ってると、こころなしかさっきよりしっかりした足取りの幸子が現れました。

 数分後、かわっちは自分がいた荒川河川敷を見下ろしていました。

 夕日は半分以上東京のビル郡に溶け、街は群青に染まっています。

「ほえー。すごい眺めっちなー」
 西川口に連れられていったのは地上185メートルの超高層マンション、エルザタワーの高層階でした。
 3LDKの部屋はIKEAで買ったような洗練された家具や調度品で統一されています。
「ここに住んでるっちか。すごいっちな。一体何すればこんなところに住めるっち?」
「おもにFXだ」
「ほえー。セックスっちか」
「FX」
「えふえっくすっちか」
「意味わかってるのか?」
「何かいやらしいことっち?」
「…FXとは外国為替取引。俺はそのトレーダーだ。だが、誰もが俺のようになれるわけじゃない。9割以上は資金を溶かして退場する破産と隣り合わせのシビアな世界だ」
「ほえー」理解していません。
「…ところでかわっち」
「なにっち?」
「お前は本当にモテないな」
「え? え? モテ…? いや、そんなにひどくはないっちよ。今日はたまたまちょっと上手く行かなかったっちけどいつもは…」
「かわっち。ここからよく見えるだろう。お前の暮らす荒川が。俺はここから毎日お前がフラれるところを見ていたんだ」
「え?」
「OL、女子大生、女子高生、主婦、おばあさん、小学生、幼稚園生、お前は実に色々なタイプの女性にふられてきた」
「え? あ、あの…」
「そんなお前を毎日見ながら俺は決心したんだ。かわっち。俺がお前をモテさせてみせる」
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。
「…モ、モテさせるって?」
「必要ないか?」
「本当にモテるっちか?」
「ああ、モテる」
「そうっちか。ま、どちらかと言えば、あくまでどちかを選べと言われればっちけど、まあ、お願いしてもいいっていうか…」
「…やめとくか」
「お願いしますっち」かわっちは土下座をしました。

02-2西川口の部屋

 
「でも、なんでっち?」
「そうだな。ただの親切心ってことだな」
「親切心っちか」
「イマイチ納得してない顔だな。まあ、もう少し説明をするのであれば、この通り、俺は人生の勝ち組だ。しかし、大金を手にして、いい部屋から下界を見下ろして暮らすっていうのはやってみると案外退屈でな。誰かに何かを与える側になってみたくなったんだ。その誰かがお前ってわけだ。これでどうだ」
「はあ…」
「まあ、理由なんてどうでもいいだろう。お前はモテたい。俺はお前をモテさせたい。それだけでいいはずだ」


 それから3時間。西川口のモテモテナンパ講座が開催されました。

「いいか。かわっち。お前は一日にどのくらいの女に声をかける?」
「まあ、1回…?」
「なぜだ? なぜ2回、3回といかない?」
「断られたら心が折れてしまってそれ以上は行けなくなるっちよ」
「まずはそこからだな」
「え? どういうことっち?」
「いいか。ナンパの成功はこういう式で表されるんだ。『声をかけた回数』×『成功率』。つまりだ。仮にお前のナンパ成功率が0.01パーセントだったとしよう」
「そんなに低くはないと…」
「普通に考えるとゼロと同じだな。しかし、ゼロじゃない。0.01パーセントに100をかけるといくつだ?」
「…1パーセントっち」
「そうだ。1パーセントだ。そして、1万をかけると100パーセント。つまりお前でも1万人に声をかければ必ず女の子をゲットできるわけだ」
「一万人…」
「明日から一日100人に声をかけろ」
「え? 100人っちか」
「それを100日だ」
「ほえー」
「モテたいんだろう」
「…モテたいっち…」
「そして、次はどうやって0.01を0.02や0.1に上げていくかだ」
「そもそも0.01ってところに納得いってな…」
「まずは会話を成立させることだ」
「…無視っちか…まあいいっちけど…」
「たとえばお前なら最初の会話にどんな話題を選ぶ?」
「うーん。『何か悩みがあるっちか? おれっちに話してみるっち』とか…」
「それで相手はなんて答える?」
「だいたい『え?』って…」
「だろうな。初対面のよくわからないモンスターにいきなり悩みなんて打ち明けるわけないだろう」
「そうっちかね。おれっちは受け止めるっちけど…」
「正解はYESかNOかで答えられる質問をするんだ」
「YESかNO?」
「試しに俺が質問してみるから答えてみろ『川口にお住まいですか?』」
「はいっち…」
「な。今、会話が成立しただろう」
「確かに」
「最初はこれでいいんだよ」
「次はどうするっち?」
「ずばり。5W1Hだ」
「ゴダイゴいちエッチなのはタケカワユキヒデ?」
「『ごだ』までしかあってないだろうタケカワユキヒデさんに謝れ! 確かにあの人は子沢山という側面もあるがベストファーザー賞を受賞した素晴らしい人だし、何よりミュージシャンとして輝かしい功績をあげた日本音楽会のレジェンドだ!」
「タ、タケカワユキヒデさん。すいませんっち」
「あらためて、5W1H!」
「だからそれは何っち?」
「中学校で習っただろう」
「モンスターには中学校ないっちから」
「ああそうか。ようするに「いつ」「どこ」「だれ」「なに」「なぜ」「どうする」だな。たとえば俺が質問する『川口のオススメスポットはどこですか?』さ、答えてみろ」
「この季節なら荒川河川敷がオススメっちね」
「それはどうしてですか?」
「秋の草花や虫の声を堪能できるっちよ」
「どうだ?」
「か、会話が続いてるっち」
「ふふふ。続けていくぞ。次はドア・イン・ザ・フェイス」
「ドア…アイ-ン…イン…ザ・フェイス?」
「アイーンはいらない。ドア・イン・ザ・フェイス。訳すと「ドアから顔」。セールスマンが相手に要求するときにドアに顔を突っ込んだことに由来しているらしんだが、ようするにお願いの段階を踏むわけだな」
「なるほど。それならわかるっち。いきなりおっぱいを揉ませてほしいとお願いする前に、まずは手を握りたいくらいのところから攻めるべきっちからね」
「それが実は逆なんだよ」
「逆?」
「じゃあ、仮におっぱいを揉みたいとして俺にお願いしてみろ」
「お、おっぱいを…いや、そんないきなりじゃダメっちね。手、手を握ってもいいっちか?」
「嫌だ!」
「…」
「どうだ。話が終わってしまっただろう」
「本当っち」
「正解は、到底聞いてもらえなそうな高い要求を最初にぶつけるんだ」
「え?」
「俺と結婚してくれ」
「え? そ、そんないきなり言われても」
「それが駄目なら俺の恋人になれ」
「え? こ、恋人?」
「それも無理ならお前のおっぱいくらい揉ませてくれないか」
「ま、まあそのくらいなら許してもいいっちかね…」
「どうだ?」
「は! いつの間にかおっぱいを揉ませることを許してしまったっち」
「これがドア・イン・ザ・フェイスだ。どうだこれなら女の子にいろいろなお願いをできそうだと思うだろう」
「思うっち」
「ほら、これ」
「何っち?」
「インカムだ。明日からこれで指示を出す。俺の指示通りにナンパをするんだ。俺がお前をモテモテにしてやる」
「よろしくっち」
 かわっちは希望に燃えた足取りで西川口の部屋を出るのでした。

 夜中、西川口は窓から東京の夜景を見おろしブランデーグラスを傾けていました。
 その脇でははとっちが小さい羽を小刻みに動かし浮かんでいます。
 西川口はガラスに映った自分につぶやきました。
「もし、アイツができるならオレだって」
「ふるっふー」
 はとっちは西川口に寄り添うように浮かんでおりました。

  テーブルの上に置かれたサングラスには、間接照明の淡い光が反射していました。


 翌朝10時。希望に燃えた目で新荒川大橋の入口に立つかわっちがいました。
 川の水面は秋の明るい日差しをうけサンサンと輝いています。

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 かわっちは耳にイヤホンをさし、背中の甲羅にインカムを隠し、準備は万端です。
 するとイヤホンから声が聞こえてきました。
「こちら西川口聞こえるか?」
「聞こえるっち」
「まず最初はどうする?」
「YESかNOで答えられる質問をするっち」
「よし。最初からうまくはいかないだろう。だがあきらめずに食らいついていけ」
「ラジャ」
 いよいよモテモテを目指し、かわっちのナンパが始まりました。
 新荒川大橋を女性はだいたい5分に一人くらいの割合で通りすぎていきます。
 かわっちはフラれてもフラれても女性にくらいついていく覚悟をきめて拳を強く握り締めました。


「あの…川口の人っち?」
 橋の真ん中で待っていたかわっちは東京側から歩いてきた若いOLに声をかけました。
「え?」OLは戸惑ってかわっちを見ます。そして声をかけてきたのが緑色のモンスターだとわかって戸惑いました。「え? ええ? 何?」
「川口の人っち?」かわっちはひるみません。かまわずに質問を続けます。
「…スイマセン」OLはそれだけ言って目を伏せ立ち去ろうとしました。
 しかし、かわっちはくじけません。「YESかNOかで答えてほしいっち。川口の人っち?」
 OLは無視して歩いていきます。
「川口の人っち?」かわっちは明るく言いながらOLについていきます。
 そのとき、突然OLが走りだしました。
 かわっちも逃げられるわけにはいかないと走って追いかけます「川口の人っち?」
 ついに恐怖が最高潮に達したOLは「キャー」っと叫びハンドバッグを振り回しました。

「川口の人…」メキッ!

 ハンドバックはかわっちのこめかみに食い込みました。
 なぜかハンドバックには鉄アレイが入っていたため
 遠心力によって増幅された重量がかわっちを直撃しました。

「ガハッ」

 かわっちは吐血しながら車道にふっとびました。

03OL対かわっち
 

 かわっちは荒川を見ながらため息をつきました。

「はあ~。堀北真希ちゃんみたいな美人が突然おれっちに一目惚れして結婚迫ってきたりしないっちかね~」

00-1


 荒川の水面は午後の陽を受けて薄いオレンジに輝いてます。

 かわっちは川に向かって小石を投げました。
 しかし、小石はほんの数メートル先に微かな音をたてて落ち、川の対岸、東京都北区赤羽にはまったく届きませんでした。

 かわっちがほおずえをついて寝転んでいるのは荒川河川敷の埼玉県川口市側、新荒川大橋のたもとです。

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 かわっちはいつの間にか、ここ荒川に生まれ、川口市側の河川敷に住み着くようにななりました。

 かわっちとは何なのか?
 その姿はカッパに似ています。
 しかし、カッパではありません。緑色の肌をして甲羅を背負っていますが、頭には皿でなく川口市の市の木でもあるサザンカが咲いています。

 かわっちが何なのかはかわっち自身でもよくわかっていませんでしたが、本人ははあまり気にしてませんでした。
 おそらくモンスターの一種だろうということ以上深く考えることもなく、またその必要もありませんでした。

 かわっちにとって何より大切なのは自分が何なのかということではなく、とにかく女の子にモテて、恋をしたりエッチなことをしたいということでありました。
 かわっちはドスケベでした。

 かわっちが寝転ぶ草むらの上の歩道を男子中学生たちがじゃれあいながら歩き去っていきます。
 そのすぐ後で、ランニングをするおじいちゃん、ポメラニアンを連れたおばちゃんなども通り過ぎていきました。

 のどかな秋の夕暮れです。

 そのとき、かわっちの左横5メートルほどのところに一人の女の子が腰をかけました。

 earth music & ecology か niko and...などで売っていそうなグレーのパーカーと、ふわっとした白いロングスカートを履いて、髪をナチュラルなブラウンに染めた大学生くらいのかわいい女子です。

 かわっちはその子を見て、反射的に目を反らしたものの、頭の中では激しい自問自答が始まっていた。

(な、なんでこんな近くに座るっち? いや、そこまで近くもないっちか。いや、でも近いと言えば近いっち。やっぱりこれは、おれっちと話をしたいってことっちか? 確かにその可能性は否定できないっち。そうでなければ、こんなに近くに座る必要がないっちから。なら、おれっちはどうするっち? 向こうから声をかけるのを待つっちか? でも、女の子から声をかけてくるっちかね? やっぱりおれっちが声をかけるべきっちよね。あーでも、そう考えるとなんだかドキドキするっちなー。やっぱり声かけるのやめよっかなー。いや、でも待てよ。あの子は何か悩みがあるのかもしれないっち。もしそうならおれっちがその悩みを聞いてあげないとかわいそうっち。よし、やっぱり声かけるっち。これをきっかけに恋人になれればエッチなこともさせてもらえるかもしれないっち。あー、でも何て声をかければいいっちかね?)

 長い!

 とにかくかわっちは決心して立ち上がり女の子のほうに歩いていきました。
「何を悩んでるっち?」
 優しく言って女の子の横に腰掛けます。
「え?」女の子は戸惑いながら小さく答えました。
「悩みがあるならおれっちが聞くから話してみるっち」
「え? ちょっと何?」女の子はとまどい、拒絶のニュアンスを込めて言いました。
「おれっちはかわっちっち」かわっちは気づきません。
「か、かわっちっち?」
「かわっちっち」
「かわっちっち?」
「最後のちはいらないっち。かわっち」
「かわっち?」
「かわっち。さ、何でも話してみるっち」かわっちはそう言って女の子の肩に手を触れました。
「キャッ」女の子は体を強ばらせたとき、頭上から若い男の声が聞こえました。
「何をしている!」
 スキニーパンツと首元が開いたTシャツ、そして薄手のジャケットを羽織った男はNHKの朝ドラで人気が急上昇する若手俳優のような爽やかなGUYでした。

 風が吹き抜けると、やわらかそうな髪がなびきます。

 そして、女の子は男をうるうるした瞳で見ています。

 かわっちは狼狽して言いました。
「え? おれっちっち? おれっちはこの子が悩んでるふうだったから話を聞こうとしていたところっち」
「嫌がってるだろ」
「え? 嫌がってないっちよ。ねえ」
「ジュンくん」女の子は立ち上がり男の胸に飛び込み泣き出しました。
「え。なんで泣くっち。おれっち何もしてないっちよね」
 男は怒りのオーラをまとい、かわっちを睨みつけています。
「ちょっとこの人何か誤解しているみたいだから何か言ってっち」
「いい加減にしないか」男はかわっちを押しました。
 かわっちはバランスを崩し草の斜面をごろごろと後ろ向きに転がり落ちていきます。
 10メートルほど転がり続け一番下でやっと止まったかわっちはひっくり返り肛門丸見えの状態で伸びてしまいました。

30
 

 そこにタイミング悪くマウンテンバイクを練習中の人がやってきました。
 マウンテンバイクに乗った男はかわっちを轢きそうになったものの、発達した反射神経でかわっちを避けました。
 しかし、そのせいで横の水たまりを突っ切ることになり、盛大に跳ねあがった泥水はモロにかわっちにかかりました。
 かわっちはずぶ濡れのまっ茶色です。

 若い男女はかわっちの存在を忘れ、盛り上がっています。
「クスンクスン。ジュンくん。怖かったよ」
「ゴメンなお前のこと一人にして。もうどこへも行かないから。ずっと一緒にいよう」
「約束だよ」
「約束する」

 かわっちは肛門をさらし、寝っ転がった状態で空を見ていました。その目に少し涙をためて。
 男女が寄り添いながら去っていってもかわっちはそのまま動きませんでした。


 そのときゆっくりとした、しかし大きな拍手の音が近づいてきました。
 同時に太い男の声が聞こえました。

「すばらしいフラれっぷりだ」

 かわっちがひっくり返ったまま声のほうを見ると、黒いニットにサングラスの綾野剛みたいな男がポケットに手を入れて草の斜面を下りてきます。
 その男の隣には白い鳩のような生物が小さな羽をパタパタさせながら浮かんでいます。


01-2西川口とはとっち



「おれは西川口」男はかわっちの傍まで来て、見下ろしながら言いました。
「こっちは鳩ケ谷で出会ったはとっち」
「ふるっふー」不思議な生物が鳴きました。
「西川口…さんとはとっち」
「そうだ」
「ふるっふー」
「おれは…かわっちっち…。…おれっちに何か用っちか?」
「お前はモテたいか?」
「え?」
「お前はモテたいか?」
「どういうことっち?」
「ただ素直に答えるんだ。モテたいか?」
 西川口はサングラスごしにかわっちを見つめています。
 そのまっすぐな視線にうながされるようにかわっちは答えました。
「まあ…どちらかと言えば…モ、モテたいっち…」
「その望みおれが叶えてやる。着いてこい」
 そう言って西川口は草の斜面を登っていきます。
 半分ほど上ったところで振り返りながら言いました。
「来いよ。モテたいんだろう」
「ふるっふー」はとっちが鳴きました。

 風に舞うコンビニの白いビニール袋が、人間とモンスターの間を通り過ぎていきました。

 数百メートル離れた陸橋では京浜東北線が東京から埼玉へと荒川を渡っておりました。

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